mie's trash box

要らないものは捨てましょう。

ほんとのほんと

私の大好きな人が書いた"ほんとのほんと"という歌が私は好きだ。

こんなに全てが刺さる歌詞はない。彼の書いた詩の中で一番と言っても過言ではないと思う。私のために歌われた歌などないのは分かっているんだけど、私の為になっている。

 

きっと彼も本当のことはなかなか言い出せない性格をしているんだと思う。

 

私の言い出せない性格がこのブログを始めるきっかけになっただろう。言い出せないけど吐き出さないとやっていられない精神をしていた。けれど、最近になってどんどん下書きばかりが溜まってしまって困っている。

 

本当のことを言わずに叱られてしまうことがある。本当のことを言うのが日に日に億劫になってしまって参っている。本当のことを聞くのが怖くなってしまってもどかしい。ある程度のことは予測できるはずなのに、そういうときに限って先のことが読めない。

 

信用されてないとも思っていなければ信じてないわけでもないけど、何か些細なきっかけで全部が崩れてしまいそうで言葉に詰まってしまう。自信がないんだと思う。何に対しても。人は他人だと分かっていても、その人より特別優れているわけでもない。だからといって劣っていると思っているわけでもないんだけど、自信が持てる要素がない。

 

信じてほしくてほんとのほんとなんだよって言いたくなるときがある。分かってるよって答えてくれるんだろうけど、何度もほんとにほんとなのって言いたいことが増えつつある。言いながら自分自身を説得している。

 

あなたがそうであるように私もあなたを中心に世界が回っているのかもしれない。

 

私の大好きな人はまた歌を作った。ラブソングは歌わないと言っていた彼からは想像つかない詩だった。ベイビーアイラブユーだぜとキャッチーな歌だった。いつまでも現実を逆行してばかりはいられないのかもしれない。抵抗力が弱まったのではなく、現実を少しずつ小さいことから認め始めたのだろう。だから本当はこう思っていると言うことができるようになったのだろう。

 

彼にも訪れた変化が私にも起きているのかもしれない。

 

もしほんとのほんとが言いたくても言えないときがあったら、とりあえず小さな箱にでもしまって守っておこう。でも鍵は閉めちゃいけない。ただ自然と話したくなるときを待てばいいんじゃないだろうか。だから今の私は間違ってないんじゃないだろうか。

 

 

 

なんてことない

優しいと言われる。そのたびにそんなことないと心底思う。私は色んなことに対してどうでもいいなあと思っている節があるので人からそういう印象を受けられるのだと思っている。興味がないとはちょっと違って、自分が思った通りじゃなくてもそんなものだよなとすぐ納得できるんだと思う。だから私の中で私は優しくない。

 

誰にでも優しい人は実は冷たい人、みたいな見出しを見かけたりする。人から言われるとなんか嫌な感じがする。まあ別に私が誰にでも優しいと言ってるわけでも言われてるわけでもないんだけど。だからといって私は冷たくないだの、じゃあ私は誰にでも優しくないだの否定はしない。そう言う人もいるよなあと思う。そんなものだと思う。

 

一度全部に絶望しているので何が起きてもそういうこともあると言うことができるようになってしまった。何を思うかなんてみんな同じじゃないし、予想できないことだって毎日のように起きてたりする。別になんてことない。

 

優しいと言われるたびにどうでもいいが溜まっていく。毎日を無で生きているわけじゃない。ちゃんと喜ぶし楽しんだり悲しんだり時には驚いたりする。感情はある。感覚はある。

 

例えば、いくらだったのかももう思い出せないし知らないのかもしれない自分で買ったのか何だかも忘れてしまったいつもつけてるリングを家に忘れたところで私の生活は何も変わらない。いつものようにバイトに行っていつものような成績を出す。そもそもなんの指輪かも覚えてないし。だから私にだって忘れることもあるよなあ、そんな日もあるよなあ、で終わり。

 

私がずっと大切にできるものは良くて精々3つくらい。音楽と愛犬とあと何か一つ。

 

如何にもこうにも上手くいかなくて、なんてことない、そういうときもあるで処理できないことの原因があるとすれば、それはきっと大切にするべきもののあと一つなのかなあと甘いミルクティーを飲みながら思ったりした。

錯覚の持続性はいつまで

一時の感情は錯覚だと思う。ある時間を過ぎればその感情はいつのまにか消えている。そのときだけ何かがいつもと違って見えて通常じゃない思いが感情になる。でもそれはその人の中で起きてるだけの話。錯覚と言うしかないと思った。じゃあ消えるタイミングはいつになるだろう。一分後か一年後か10年後か死ぬ間際までか。

 

例えば、結婚した双方は死ぬまでお互いを好きでいるのだろうか。

例えば、一度仲違いした旧友同士は死ぬまで恨み合ってるのだろうか。

 

どちらとも死ぬまでそういう思いが続くこともあるだろうし、いつかどこかのタイミングで錯覚の糸が切れてしまうときもあるだろう。

不安定で脆い。

 

ずっと、とかそんなものはないことくらい分かっているし信じてもいない。

 

私の好きだという思いも錯覚でいつか途切れてしまうものだとしたら、これを抱えてながら生きていくのはひどく苦しい。なのにいつも何らかの錯覚を持ち合わせてる気がする。人はそんなものなのかもしれない。錯覚がなかったら楽しくないのかも。ずっと続いたらいいのにと願ってしまうかも。そんな私らしくないことを思ってしまった。

 

でも私の嫌いだと言う思いは錯覚じゃない気がする。負の感情は確かな感覚な気がする。憎しみとか復讐とか戦争とか確かなものじゃなきゃ持ってはいけないような代物だと思うし錯覚とか幻想とか夢の類だったら良かったのにとも思う。よくできている何も誰も責められない世界だ。

 

錯覚が始まったらそりゃあ迷ったり悩んだりするんだろうけど、そんなこと後にはどうでもよくなっているくらい確かなものだったりする。自分の中でありえないと思ってたことさえ起きる。

不満で不思議でめんどくさい。

 

だから好きな錯覚くらい長く続いてくれよって溜息をつきたくなった。

 

 

 

なんでもないってたまには言わせて

"なんでもない"をすぐ使っているからやめたほうがいいと言われた。自分でも口癖的に多用してるのは分かっていたけど別に悪いという風には思ってなかった。言おうとしたけどまあ別にわざわざ言うことでもないし、なんなら言わない方がお互いのためだと先を予測する脳と言葉を発する速度がずれているのだと思う。未だに矯正できていないのがここにきて指摘された。それだけのことだと思いながら私の思考回路にへばりついている。

 

私は平和主義だと思う。人類皆兄弟精神で考えれば人と争うのは馬鹿みたいだ。と、思うように決めたターニングポイントがこれまでの人生にあったと思う。いつだったか忘れたけど、たぶん何もかも気に入らなかった中学生のときだった気がする。そのおかげで極力私から怒らないように理性を保てている。歳をとるにつれて話し合いで解決しようということが多い。だからすぐに口喧嘩らしくなる。理性を持って冷静に話し合えばいいものを感情で会話し出すから意味のない口論になる。無駄が嫌いだ。要らない感情を“あ、やっぱりなんでもない”で沈めることができるなら別に言ったっていいじゃんって思った。でもそれはとても利己的で自分勝手な言い分なんだとも思ってしまった。なんでもないって言われたら、例え悪いことでも気になってしまう。「なにを言おうとしたの?」って聞き返されて当然だろう。

 

じゃあ、相手も傷つけず自分も傷つかないようにするにはどうしたらいいんだろう。

嘘をつくリスクは時と場合によってはかなり差があるけど、このくらいしか思いつかない。でも相手によっては、あるいは物事によっては嘘をつきたくない時があるし、そんなとき“なんでもない”は便利なツールだと思う。っていうスパイラル。

 

嘘は良くないと思う。よく嘘をついてしまうのだけれど。相手に、それ嘘でしょって分かるような嘘だけをついてる(つもり)。素直じゃないのかもしれない。いつも嘘をついてるわけじゃないけど、どういうわけか大事なところで本当から目を背けてしまう。怖いんだと思う。この歳にもなって、まだ自分の本質を話すことがなかなか出来ないでいる。信じてないわけじゃない。むしろ信じている。信用している。でも勝手に私を信じきらないでほしい。信頼しないでほしい。がっかりされたら困るから。悲しくなるから。思ってるより弱いのかもしれない。

願わくば私がぐらついていないか疑っていてほしい。

これらも全部、利己的で自分勝手だから嫌になってしまうな。どう考えても踏んだり蹴ったりで行き場がない。

 

そんなことを思いながらまた“なんでもない”って言っている。

頼むから飽きさせないでくれ

音楽を聴いていなければ生きていけなかったのに最近はそんなこともない。イヤホンを忘れた時、好きなアーティストのCDをフラゲできなかった時、気分が悪くなったりしたのに今はそんなこともない。そんなこともないけど、ずっと音楽を聴いていたという経験から聴けなくなってもむしゃくしゃする。なぜこうなってしまったんだろう。大きなショックは最近ない。あったとすれば大地震。確かにあの後聞く気になれなかったけれど、もっと前からな気がする。いつからだろう。

ある女の子が中学生の頃聞いていた音楽は今も聞き続けていられているだろうか。変化は成長か。唯一今も好きなアーティストは好きだったあのころと何ら変わっていないか。変わってしまったなら上手く成長してくれという願いは今更空しい。

ライブハウスに4ヵ月も行かなかったことなんて大学生になってからは少ない。

ある女の子だった女性は8月にずっと好きだったバンドのライブDVDを買った。9月になった今でさえも内容を全て見ていない。気になる気にならないとかではない。続きが分かっているから途中で見るのをやめた。このライブに行ったわけじゃないけど、続きが分かっている。目新しさはない。毎年同じようなことを演出している。音も歌詞も別に嫌いになったわけじゃないのに、あの頃と同じくらい作詞作曲家を敬愛しているのにどうして一層陳腐になっていくのだろう。光で魅せることに文句はない。使えるテクノロジーは使うべきだと思う。ただ、使いようだと思う。ありがちなコードと安直に共感を促すような歌詞には惹かれない。そんなものを聞くくらいなら雨の音でも聞きながら本を読みたい。創造する上でパクリもコピーも二番煎じもナンセンスだと思う。

日常にありふれているわけじゃないエンターテインメントもそのクリエイターも別に退屈させたいわけじゃないんだろう。でもお願いだから私の楽しみだけはずっと飽きさせないでという思いはきっと我儘になってしまうんだろうな。

 

好きのものには好きだと思っていたい

好きな人には好きだと伝えておきたい

 

嫌いなものはできるだけ増やしたくない

 

物人全てにおいてちゃんと好きになった経験が少ないから嫌いになり方も嫌いになったときの対処法も分からず心のやり場が見つからなくてただ独りで何も出来ず寂しく辛く思っている。

 

このままずっと、頼むから飽きさせないでくれと駄々をこねているのだろうなと思ってしまった。

嫌なこと

いつだって嫌なことはしたくないし、嫌なことは言われたくないし、できるだけ平和的に生きていきたい。

そう思えば思うほど一人になっていくのはもう知っている。

我儘なので一人も嫌だと言い張る。欲張りな生き物だ。

 

大学には行きたかったけど、こんなに実験がしたかったわけじゃないし

日々をバイトに捧げている節があるけど、そんなに一生懸命したいわけじゃない

きつく言われようと構わないけど、できるだけ聞きたくない

 

支障なく全部こなしてるけど別に器用ってわけでもないからできればもっと不器用で素直な人間でありたかった。

 

人に興味を持たなくなったので、そんな感情論よりどれだけ今日を面倒じゃない方法で終えられるかしか考えてない

質素で退屈だと思われても別にいい

第一私自身、別段退屈してない

それなりに日々楽しい

 

"あなたはこの仕事に向いている"

バイト先で光栄なことに何人かに言ってもらえた。私はこれに同意しないけど別に否定もしない。多重人格ではないけどバイトをしてる時は"外"用の会話力の高いいつも笑顔の自分が頑張ってくれているのだと思う。もちろん私の本質ではない。でも頑張ってくれてるからこういうことを言われるのだと思ってる。このときの私はバイトをしてなければ居なかっただろうし成長もしなかった。

みんなそんなものだと思う。

嫌なことはそれ相応にあるけど、自分の中の誰かが頑張っていてなんとか乗り越えようとする頑張り屋な性格が何処かにあるんだと思う。

 

じゃあ、嫌なこと言われた時、言い返してしまった時、私の中の誰が対応しているんだろう。

これはどちらとも私の核なる部分が請け負ってるんだろうと思う。

分かり易すぎるくらい傷付くし

ああ言ってしまった、でも戻れないしなと感情が無になる。

でも結局どうでもよくなるのがオチだ。どうでもいいフリをして日々を逃げている。

 

好きな人尊敬してる人そういう類の人から言われる自分にとっての嫌なフレーズはきっと夜になっても逃げきれず、ずっと頭の中で右往左往している。それをなんでもないようなフリをする。逃げ切れないから下手な演技を打つ。そうすると半永久的に私の中に残ってふとしたときに思い出し過呼吸になってしまう。まるで救いようがない。

 

私は人にも嘘をついて自分をも騙して生きている弱い生き物なんだなあ、とまたどうでも良さげな顔をした。

 

 

妥協点

どこまで妥協できたら大人なんだろう

 

これと決めた途端に道を外せなくなる性分

 

道は一本道で抜け道などない

分岐点はなかなか訪れない

 

自分で作ればいいとか言う綺麗事

自分の振り返った先に道が出来てるとか笑っちゃう話

 

そもそも道は真っ直ぐじゃない

 

譲っちゃえば楽だけど一歩も譲りたくない

 

青二才的思考力

 

妥協を決めた時、弱くなる気がする

 

やる前から自分でできる範囲を決めてしまうのはやる気がないんだと思ってしまう

思考を停止した人間に興味はないし、やってみなきゃ分からないという精神だけは大事にしたい

自分で自分の許容範囲を決めたくない

じゃなきゃできることはもっと狭い世界になる

 

でもどうしても諦めなきゃいけない時が出てきたらどこか妥協しなきゃいけない

するならギリギリのラインがいい

 

例えば自分の話をしよう

 

よく新しいことを始めたがる

飽き性なのかもしれないし名も無き古き良き伝統が嫌いだからかもしれない

私はよく"思いついちゃうんだから仕方がない"と言って周りを困らせた

それでも曲げずに曲げられずに強行突破した

本当、迷惑な話

 

一度だけ妥協をした

最近の話

妥協というか全てを捨ててしまった

要らなくなったわけじゃない

突き通したかった

結果論的に出来なかったのだけれど

突き通せなかった

理想を掲げ続けた結果である

結局現実派が多数派なんだと思った

 

人の熱量は他人には測れない

 

やる気ないならやめてくれ

 

言いたくて言えなかった言葉が喉に詰まって窒息するかと思い出すたび思う

 

肩書き重視の社会に吐き気がした

学生のうちからそんなことばっかりで退屈な人だと思った

 

私の性格上、啖呵を切ってやめてしまった

 

やっぱり自分を曲げられなかった

曲げてまですることじゃないし私を殺すことは不利益だと思った

 

先を見据えられない低脳

 

その後私を信頼した仲間がみんなやめてしまったと知った

主メンバーが全員辞めた

組織内の半分がいなくなった

私の責任は学生の身分で大学内の事柄であろうと重かったんだと思った反面、今更どうでもいいと思っている

 

仕方がないと思う部分もある

出来ないことだってある

それは分かる

その話をしているんじゃない

 

肩書き欲しさのために経験するのと

馬鹿みたいな理想論に期待して試行錯誤するのは全く違うものだと言っているのに全然理解が得られない

見た目は一緒でも密度が違う

新しい創造に効率を求め出したら、その末路は二番煎じしかない

 

あの構想はあの時間は

当日本番、確実に私のものだった

誰よりも私が好きな空間だったのに

子どもみたいな駄々をこねても仕方ない

 

信念信仰は簡単に曲げられない

本質は変わらない

 

妥協じゃなかったと思いたい

 

後悔はしてない

 

私だって傷を自らつけたくない

もう十分な喪失感をご馳走してもらった

 

うらやましいとは思わない

 

まだまだ尖っていたい

体力を使う

 

人の信用にはいつも感謝しかない

いつまでも大切にしたい

 

 

[追記]

今年の秋は何にもすることがなくなっちゃって4連休ができるから何処か旅行に行きたい。何処に行こうと考えてるのが最近の楽しみでもあり哀しさでもあるかもしれない。

 

[追記181009]

この話を私とずっと仲良くしてくれている友人に話したところ一緒に旅行することになった。こういうのが途切れないように日々努力と反省をしていかないといけないなあと思った。