mie's trash box

要らないものは捨てましょう。

尊敬と未熟な私の話。

4月上旬東京でお葬式に出席する父が私の家に泊まりに来た。それから2ヶ月ほど経ってやっとこの話ができる。

 

私と父は「似ている」とよく言われる。

性格、考え方、顔も。

 

似ていない部分を挙げたほうが早いかもしれない。

父は男で私は女。身長差が30㎝ほど。

 

私の尊敬する人は父だ。

そう言えるのに今現在までかかった。

しかし、正直言うと出来れば言いたくないし、言うには深呼吸を30回くらいしてからじゃないと酸素が足りないような感覚がある。

 

私と父の関係は、今はきっと良いように見えている。

小学生のときは仕事第一でなかなか会えなかったし、中学3年間は一言も言葉を交わさなかったし、高校生の時は「だんだんお父さんに似てきたね」と母に言われる回数が多くなり酷く心の中で嫌いながら、愛想を振りまいた。

 

私は自我を確立させるのが周りより早かったのだと思う。

”人と同じ”という感覚が異常に嫌だった。

 

その癖私は父と同じような道を辿っている。

父の後を追って、などとよく思われる。

 

理系、物理は嫌い、浪人、音楽映画お酒好き

 

私の核はほとんどおさがりのような感じがした。

 

そう思っているなんてきっと知らない父は娘の私を甘やかし自由にした。

ズタズタになった。

弟にはいつも厳しかった。家を追い出すことも小さいころからあったし私からすると昭和的なしつけだった。

私にも同じ態度でいてほしかった。でもそうしなかった理由は今では分かるし正しい。

弟と私の性格は似ていない。

私は厳しくされてもきっと何も変わらないし変える気もない。

 

人に何かを言われて動くのは嫌いだ。

思っていたことを言われるのも嫌い。

 

それを分かった上で私を放置した。似ているからこそ知っていた。

だからいつか分かると当時父は仮定していた。

 

逆に母は全てに対して平等だった。高校生までの幼き私にはこれが正常だと思っていた。

 

私の人生で最も変化が見られたのは浪人期間であろう。

私は元々浪人する気がなかった。したくなかった。浪人生として進学するのが嫌だった。でも大学に納得したわけでもなかった。現役の3月には住む家も決めていた。あとは判を押すだけだった。

私の家族というより親族が無言で反対した。そもそも女で理系に進むことすら疑問に思っていた彼らにもう一年受験勉強したいとは言いだせない状況下だった。(金銭面的に言わねばならなかった)

 

判を押す手前、父は「気にするな」とだけ言った。すべてをひっくるめての言葉だったと思う。その時の父はお酒で酔っていた。

 

皮肉なことに浪人時代が一番人間的に成長したと思う。結果論だけど。

精神的には現役より最悪で母との相性も最悪になった。

 

ここがターニングポイントだけど別の機会にしよう。

この話をするのにはまだ精神安定剤を飲まなければならない気がする。(これも色々語弊が生まれる言い方だがここでは許してほしい。全くもって問題も危険もない話だから。)

 

 

父の思考力が嫌いだった

 

母のようになんでも分かってる風を醸し出さず、なんでも分かっていたのが無性にイライラした

 

きっとどう転んでもむしゃくしゃする

 

きっと憧れていた

 

きっとね。

 

父が先月家に来た時、初めてサシでお酒を飲んだ

成人を超えてから実家で飲むことはあったが父とともに飲むことはなかった

 

色んな話をした

幼少の頃から今までの話

これからの話

 

初めて父と会話をした気がした

 

このとき、父は分かってる風の対応をした

わたしが実家を離れて3年

 

だんだんズレが生じて来ている証拠かもしれない

なぜか悲しくなった

 

しかしながら彼自身は良い意味でも悪い意味でも何も変わってない

相変わらず煙草もお酒もやめられていない

それがなぜか微笑ましく思う

 

尊敬を過去の歴史上の人物だと唱える人がいるけど私には到底理解ができない

 

過去の事実を成し遂げた人なんだろうけど

そもそも会ったことないし

すごいとは思うけど尊敬までできない

 

言い方を変えると、歴史上に名を残してる方々は私の想像を超える想像力の持ち主なので逆にその人の人物像が見えない

 

近い存在で最も高い壁を見て初めて尊敬することを始める

気がする

 

比べれば私はまだまだ未熟だ

いままで話してきたこと自体、半人前の思考でしかない

経験が足りない

まだ若い

 

目標があって良かった

憧れじゃなくて良かった

 

いつかまた会う日を

じゃあね